<思い出をありがとう>

悠也は自宅のベランダで独り煙草を燻らせていた。

秋に入り天気予報を裏切りころころと天候の変わるここ数日、天気のご機嫌だけでも否応なしに気が滅入ってしまう。

今日は珍しく曇天が夜の風をひんやりと感じさせていた。

考え事をするには都合が良い。

そう思って一番風が感じられるベランダに出てきたのだった。

その悠也を悩ませる原因は他でもなく千早。

その後の千早の人気は文字通りの急上昇を辿っていた。

ルックスもさることながら抜群の歌唱力がアイドルとして、歌手としての千早にファンが釘付けになっていた。

そしていちファンでは知る事の出来ないストイックなまでの向上心。

千早は歌に関する全てを吸収していく為にその努力を惜しむ事は無かった。

それが図らずしも悠也の悩みの一つになっているとは当の千早にも解らない事であった。

当初はその可能性とその才能に嬉々として自分の夢を重ねデビューを喜んでいた悠也だったが今の悠也にその思いは無かった。

勿論、千早の人気が上がれば嬉しいし千早が知識を深める事に対しては出来る限り協力するし喜ばしくもある。

ただ、怖いのだ。

膨大且つ高度な技術を千早はその努力と才能で自分の物にしてしまう。

そしてそれが大きければ大きいほど、多ければ多いほど自分の手に負えなくなってしまうのではないか。

このまま進めば千早の技術は自分のキャパシティを飛び越えて遥かな高みに届いてしまう。

そうなれば自分はただ取り残され自分の力など必要となくなってしまう。

そんな畏怖にも似た感情が今悠也を悩ませていた。

そしてもう一つ。

そう思う反面千早の傍に居たいと思う気持ち。

当然それについて悠也は解らない訳ではない。

そしてそれがどう言う結果を招いてしまうかも知っている。

想いを伝える事も、感情を殺す事も出来ない。

今の悠也にはどうしようもなかった。

ただただ思考とは裏腹に高鳴ってしまう鼓動を抑える事しか出来なかった。

自分がプロデューサーではなく、千早が歌手ではなくもっと違う出会い方が出来ていればと…。

「はぁ…」
そんな葛藤の中、紫煙の混ざった溜息を長く吐いた。

灰皿で殆ど吸っていない煙草を揉み消すとチラリと腕時計を覗く。

重たいガラス戸を開けリビングに一歩足を踏み入れた時

プルルルルルルッと自宅の電話が着信を知らせていた。





開港祭 本番 1時間前

凛とした冬の冷たい海風が部屋の隙間から時折刺してくる。

港の公園の一角に仮に設けられたステージから少し離れた場所にこれまた仮設された出演者控え室。

待機していた千早は早々に衣装への着替えを済ませソファに腰を掛けて目を閉じていた。

ビッシリと埋まったスケジュールに目まぐるしく変わる会場。

そんな中での千早の憩いの時間でもある。

本来であれば緊張してしまったりする所なのだが今の千早には緊張をしている暇など無いくらいスケジュールに振り回されていた。

仕事をするか、休むか、レッスンするか。

24時間の殆どがその3つに費やされる。

休むに関しては今の様なやることはあれども動けない。

そんな時間しかなかった。

そしていつもこの時間に思い浮かべるのはデビューしたての頃。

デビューしたその数時間後に営業で当ても無く走り回った事。

思い出すと思わずにやけてしまう。

アポも取らずに行くのでプロデューサーは怒られていたっけ。

近くのCDショップの店員さんは困った顔をしていたな。

その後、色んな所から”お問い合わせ”を受けた小鳥に二人でお説教されたんだった。

等々

今考えてみれば素っ頓狂な思いつきで行動していた。

それでもあの時ほど嬉しかった事も無い。

プロデューサーと駆け回る日々は歌以外に楽しい事の一つとなっていた。

変わった人だなと思いつつも少しずつ惹かれていく自分に驚きもした。

真っ直ぐ自分の夢を追いかける様に走る悠也は何処と無く魅力的でそれはプロデューサーとしてではなく男性として。

歌手としてではなく、女の子として。

育んできたと言うよりも気が付いたら芽生えてました。

と言わんばかりに突然にただ毎日を歌って過ごしていた千早の時を止めていた。

そして千早の思考を追い越した感情が今になってキュンと胸を狭くする。

それは今から半年前

この開港祭のオーディションの時だった。

はらはらと軽い風に軌道が変わってしまう様なしっとりとした小雨が降る中、悠也に呼び出され千早は事務所に来ていた。

「おはようございます」
千早が声を掛けると悠也は軽く手を振ってそれに答えた。

「プロデューサー、お話しって?」

「ごめんね。オフなのに呼び出しちゃって」

「いいえ」
悠也の出した椅子に腰掛けながら千早は答えた。

「まぁ、そんなに大事じゃないんだけど。でも大事でもあるのかな…」

「?」
歯切れの悪い悠也の言葉に首を傾げると悠也は一つの企画書を取り出し千早に手渡した。

貰った企画書の拍子には 開港祭スケジュール と大きく見出しが書かれていた。

「今冬、書いてある日付なんだけど。まあ、文字通りのイベントがあるとして」

「はい」

「そのイベントのトリを決める大きなオーディションが行われる」
相変わらずの簡潔な表現にも千早は既に慣れていた。

千早はニコリと微笑を返す。

「ははっ。だと思ったからもうエントリーしておいたよ」
参りましたよと言う代わりに悠也は笑いながら肩を竦めた。

「ありがとうございます!」

「いいえ、こちらこそ。1週間しか余裕が無いけど、オーディションまでのコンディションの調整頼むね」

「はい!」

そして迎えたオーディション当日

じっとりと湿気をそのまま熱した様な暑さの中、オーディション会場には他のアイドル達がひしめき合っていた。

声の調子を確認する人

振り付けを確認するユニット

忙しなく鏡をチェックしている人

女子だけではなく男子のアイドルユニットも混在している事が開港祭と言うイベントの規模を物語っていた。

中にはテレビで良く見かけるユニットや歌手の存在も見受けられる。

そんな中、千早はベンチに腰掛けいつもの様に目を閉じて静かに深呼吸を繰り返していた。

辺りのざわめきやオーディションそのものの規模が千早の心を惑わせる。

そうじゃないそうじゃない

と心の中で呟く程、緊張の二文字は千早の脳裏を掠め鼓動を圧迫する。

ドクドクと慌しく鳴る心臓が正常を保とうとする呼吸を乱し

リズムの狂った呼吸が安寧を求める気持ちを掻きむしり

葛藤を強制された気持ちが身体を震わせている

「はぁっ、はぁっ…んっ…はぁ」
口から漏れてしまう息遣いと震える身体。

思うところ無しに千早の瞳にはうっすらと涙が膜を張り視界すらもままならなくなっていた。

緊張と不安

その二つが恐怖となり千早の心を侵していく。

ふと気を緩めればその場で泣き崩れてしまいそうな圧迫感が千早を責め続けていた。

「はぁっ、はっ!はっ…うぅ」
息苦しさに顎を上げ零れ落ちそうになった涙を堪える。

このままじゃいけない

そう思い目をきつく閉じる。

瞼に押し出された涙が千早の頬を伝った。

「…っ!?」
その瞬間千早の顔は何か固いものに押し付けられていた。

驚きのあまり千早の全てが一時停止する。

「え…?」
徐々に回りだす思考が嗅覚を蘇らせた。

何処と無く懐かしい感じのする涼しげな香り

「金…木犀?」

「ごめん、気付いてやれなくて…」
悠也はそう声を掛けると千早の髪をサラリと撫でた。

「プロ…デューサー」
声と感触にやっとの事で気付いた千早はスッと脱力しそのまま頭を悠也の胸に預けた。

隣に座っていた悠也は千早の頭を抱きかかえる様にしてそのまま長髪を撫でていた。

千早はまるで故郷に帰って来た様なそんな気分に包まれるとほっと安堵の溜息を吐く。

不思議と初めての感覚の筈なのに嫌な感じはしなかった。

逆にこの感覚にずっと感じて居たいとさえ思っていた。

ただ何も言わずに自分を気遣って安心させようとしてくれている悠也の心遣いに甘んじていたい。

しばらくして千早が顔を上げると悠也は千早の覗き込んだ。

「歌えそうかい?」
しっかりと頬を伝った一滴を悠也のワイシャツで拭った千早は微笑んでそれに応えた。

「うん、じゃあ行っておいで」
悠也は優しくそう言うと千早の手を取って立たせた。

「行ってきます!」
そういつもの笑顔で千早は言うとオーディション会場へと向かった。

元々の実力も才能も併せ持っている千早。

それに努力も加わり、プロデューサーのお陰で雑念も一切無い。

そんな中で歌う千早に最早渡り合えるアイドル達はこの中には居なかった。

ポイントではなく人で数えるなら今居るアイドル達の悠に2,3人分は上を千早は突っ走っているのだ。

結果は歴然としていた。

千早の歌声に騒然としていた会場は一気に静まり返りアピールも忘れてキョトンとして千早を見ているユニットもいた。

千早が歌い終えると共にある者は項垂れ、ある者は嬉しそうに会場を後にする。

それでも結果発表は少なからず緊張を伴っていた。

何もトリは取れずとも違う枠で採用される可能性もあるので他のアイドル達も緊張は隠せない。

注意深く審査結果の発表に耳を傾けている。

「お疲れ様でした。それでは審査結果を発表いたします」
男性が紙に書かれた結果を発表する為に会場から出てきた。

「今回の開港祭の初日の最終ステージの枠の合格者は、えぇ26番の如月 ち―」
「よっしゃああああああああああああああああああああああっ!」
男性が言い終える前に歓喜の雄叫びが広場に木霊した。

千早は恥ずかしそうに俯いている。

いわずもがな悠也の雄雄しい叫びだった。

「あ…」
一瞬にして視線の刃に串刺しにされた悠也は情けない声を上げると恥ずかしさを隠すように咳払いを一つした。

「すいません…」
クスクスと微かな笑い声が聞こえてくるが当然何も言い返す事は出来ない。

「っっっっっっっっっフフフフフッ」
ここだけは何時思い出しても声を堪えきれない。

押し殺しても自然と笑い声が漏れてしまう。

一頻り笑うと千早は満足そうに小さな溜息を吐いて瞼を手で覆った。

「…いつもこうね」
千早はポツリと呟いた。

そう言いながらも千早はその感情を抑える事が出来ないし押さえる事もしない。

ここまで思い出すと残す所はいつも同じ手順を踏むだけ…

「………」
瞼を覆った手の下から涙の雫がつと千早の頬を伝っていく。

後は本番の時間が迫るまで声を殺して泣くだけだった…。





悠也は慌てて電話に駆け寄ると呼吸を整えてそっと受話器を持ち上げた。

「はい、対馬です」
受話器の向こうから無機質で事務的な口調の男性が話しかけてくる。

「対馬さんのお宅ですか?対馬 悠也さんで間違いありませんか?」
高圧的な感じで質問を投げ掛ける不躾な態度に悠也はカチンと来たが質問には答えた。

「対馬 悠也は私ですが。どちら様で?」
悠也が答えると相手は初めて身分を明かし、事の内容を本を読み上げるかの如く淡々と話し始めた。

その内容を聞いた瞬間、悠也は体温が急速に下がる思いだった。

自分でも気付かない内に受話器を持つ手が微かに震えている。

「っそ…それは、本当。ですか…?」
ショックを受けたとは言え悠也も馬鹿ではない。

だが、こんな馬鹿な質問をしてしまうほど馬鹿だと思う程客観的な思考はあるものの聞かずには居られなかった。

受話器の向こうからは事実を告げる返事が短く返って来た。

「わ、わかりました。なるべく早い内に…はい。ありがとう、ございました…」
それだけどうにか言い終えると悠也はコトリと一度受話器を置いた。

呆然としてその場に座り込み悠也は頭を抱えた。

何を考える訳でもない。

ただ何も出来ない。

あまりにも唐突すぎて泣く事だって出来やしない。

息を吐いて吸う事がやっとだった。

どれくらい時間がたったのか、どれだけ自分がそうしていたのか検討もつかない。

「…」
何も考えられなかった頭が少しずつ元に戻る。

次に何をするべきか。

悠也は立ち上がると携帯電話に歩み寄りアドレス帳を開いた。





久々のオフを千早は自宅で満喫していた。

これまでの千早であれば休日でもレッスンの為に事務所に行って部屋を借りるか自主トレをしているのが毎日の過ごし方だった。

それが今はあろう事かテレビを見たり、ファッション雑誌を捲ったりしている。

その姿は客観的に見て何処からどう見ても今時の女子高生そのものだった。

ふと気付き何時からこうだったろう?と考えたのも久しい気がする。

テーブルの上にあるクッキーを頬張りながらファッション誌を捲っていると夜のニュースのテーマが流れ始めた。

なんとは無しに一瞬見上げたが再び千早は視線をファッション誌に戻す。

今聴いたばかりのニュースのテーマをハミングしながらページを捲っているとニュースの内容が流れ始めた。

耳だけニュースに傾けているとその内容は高速道路での玉突き事故だの一家惨殺事件だの飛び降り自殺の偽装の疑惑だのと暗いものばかりが最初に並べられていた。

「なるほど。明るい話題から落とす訳にはいかないから暗い話題からニュースは始まるのね」
昨今テレビをちゃんと見始めた千早の常々の疑問が一つ解消された。

そんな事を思いつつページを捲っていると不意に携帯電話が鳴り出した。

「?」
小首を傾げて携帯電話を手に取るとサブディスプレイには対馬 悠也と表示されていた。

パカリと携帯電話を開けて通話ボタンを押す。

「如月 千早です。お疲れ様です」
いつもの様に電話に出ると悠也の呼吸が一つ聞こえてきた。

「お疲れ様、千早。今大丈夫かな?」
普段であればオフの日に電話はかけて来ない悠也だったので千早は少し考えつつも返事をした。

「大丈夫です。何かありましたか?」

「あぁ、うん。その、うん…。ちょっと言い難いんだけど落ち着いて聞いて欲しい」
歯切れ悪く言う悠也の言葉に千早は大きく深呼吸をしてから悠也の言葉を待った。

「大丈夫かな?」
慎重過ぎるまでに確認を取る悠也の態度に千早の背中を嫌な予感が走る。

「は、はい…」

「うん、その急で申し訳ないんだけど…」

「…」

「実家に帰る事になった…」

「え?」
不意に突きつけられた現実に理解が追いつかない。

「実家に、帰る事になったんだ…。だから、千早のプロデュースは俺にはもう…出来ない」
苦々しく言う悠也の言葉が一つずつ千早の気持ちに染み込んでいく。

それは千早の感情を溢れさせるのに充分な言葉だった。

瞳はすぐに正常な視界を奪われ溢れた涙が瞬きもしない内にとめどなく頬を流れていく。

「そ、そんな…だ、だってまだ3ヶ月しか…。嘘?嘘ですよね!?開港…祭だっ、て…まだ、っなのにぃ…」
泣きじゃくりながら矢継ぎ早に話す千早の言葉を悠也はただただ聞くしかなかった。

ある程度の予想はしていたとは言え千早の狼狽ぶりは悠也の考えを飛び越えていた。

言い終えて自分の返事を待っている千早のしゃくり上げる声が耳に絡みつく。

千早を守るべき筈の自分が千早を泣かせてしまった。

子供の様に声を我慢出来ずに泣いている千早がふと脳裏を掠める。

その時、首の付け根にツンとした痛みが走った。

久しく感じた事が無かったその感覚を悠也は思い出した。

(泣く時って、こんな感じだったけな)

瞼が熱くなり

視界が下からぼやけていき

完全にぼやけた時に

悠也の頬にも涙が一つ伝っていった。

寂しいと言う感覚が今になってやっと現実味を帯びて形となって表れた。

悠也自信、千早と離れたい気持ちなど微塵もない。

それでも帰らなくてはいけない。

千早がどんなに泣こうが千早には頂点を目指して欲しいと思う気持ちは変わらない。

ただそれを自分が見届けられないのが悔しくて辛くて…

それと同じ位、自分と離れるのを泣いてくれた千早が愛しくて

悠也は十数年越しに涙を流していた。

「すまない…」
震える声でそれだけ言うと千早の言葉を待った。

何を言われても言い返すことなどとても出来ない。

涙を流させただけでも悠也に取っては罪だった。

恨まれても仕方が無いと思っていた。

それでも千早には「わかった」といって貰わないといけない。

「どう、しても…ですか?ねぇ?どう…しても?」
殆ど懇願する様に千早は何度も確認した。

お願いしてどうにかなる訳が無いのは解っていた。

悠也だって本当は自分と別れたく無い事も…

それは電話の向こうから聞こえる声が、悠也自身が教えてくれた。

そんなにまでお互いに認め合って一緒に居たいと思うのに離れなくてはいけないのか…

そう思えば思う程に千早の涙は顎から零れ落ちていた。

しばらく二人が喋れぬまま電話の向こうで涙を流している相手を想って時間だけが過ぎていた。

少しだけ落ち着きを取り戻した千早は決して言いたくなかった言葉を口にした。

「わかり、ました…」
噛み締める様な言葉が悠也の耳を伝わってくる。

聞きたくはなかったが言って貰わなければいけない言葉。

言いたくなかったであろう千早は最後には自分の事を想って言ってくれた。

そうしたら自分も言わなければならない。

「ごめん…ありがとう。きっと、千早なら…出来るよ」
掠れる言葉を搾り出してそれだけ言うと悠也は通話終了ボタンを押した。

千早の耳にはツーツーと通話が終了した事を告げる電子音が聞こえていた。





「千早、もうすぐ出番だぞ?」
控え室の扉を開けて千早の現プロデューサーである五明 冬馬が声を掛ける。

悠也の後任として来た五明 冬馬は悠也と同期で元々ピアノをやっていたらしく音楽に関する知識も豊富で千早には良い条件が揃っていた。

完璧主義で融通の利かない所も多々有るがその実力は確かなもので千早にとってはある意味先生とも言える存在だった。

「やれやれ、本番は近いぞ。準備しておいてくれ」
千早の様子を見て半ば呆れた様に呟くと冬馬は控え室を後にした。

そんな冬馬に対して千早は悪いなと思いながら零れていた涙を手で拭って時計を見る。

本番まで後20分

「ごめんなさい…」
本来なら冬馬に言うべき筈の言葉をポツリと千早は呟いた。

すると

慌しく控え室のドアがノックされる。

「どうぞ」
そう答える千早はドアの向こうに誰が居るのかを知っていた。

「お邪魔しますね」
そう言うと女性が一人少し大きめなプラスチックの箱を持って入って来た。

「いつもすいません」
謝辞を述べる千早に対して女性はニッコリと笑った。

「いいえ、千早ちゃんの事は解ってるつもりだから。専属スタイリストとして、ね♪」
女性はそう言いながら手早く化粧直しを始める。

初めの頃は本番直前になって泣き顔の千早を見て慌てふためいていたこのスタイリストさんだったが2,3回も繰り返せば流石に慣れたようで
今となっては何も聞かずとも本番直前に来て化粧を直してくれる。

毎回同じ事を繰り返す千早だったが泣く理由を聞くなんて事はその女性はしなかった。

同じ女として毎度泣く理由が何故なのかはわかっているのかも知れないが千早にとってはありがたい事だった。

口にするには今の千早には重過ぎる出来事だったから。

「はい、出来た♪」

「ありがとうございます」

「うん、頑張ってね♪」
笑いながら手を振る女性に軽く手を振って控え室を出るとステージの袖に冬馬が立っていた。

「いけそうか?」

「えぇ、いつも通りに」
その答えに満足したのか冬馬は小さく頷いた。

「行って来い」

「はい」
小さく2回深呼吸をして千早は開港祭 初日の最終ステージに向かって歩き出した。


<9:02pm>

開港祭は大成功と言うのが相応しい内容でその幕を閉じた。

千早の出演を聞きつけたファンが殺到し例年の2倍近くの集客ともなればそう言わざるを得ない。

並んでいた露店にはステージが始まるまでの間ひっきりなしに渋滞となり中には材料を切らして早めに閉まった所もあった位だった。

スポンサーから感謝の電話が来て「来年もお願いしたい」と言っていた、と社長が嬉々として話してくれた。

そう言う結果になったと言うのは喜ばしい事なのだが千早はその結果には関心が無かった。

と言うのも千早の中では100%と言える歌の出来栄えではなかったからだ。

それは3ヶ月前から続いている。

そう、悠也と離れた時からだった。

自分の歌に納得が出来なくなっていた。

自分としてはいつも通り歌っているつもりだし、勿論その時のショックは大きい物だったけれど3ヶ月もすれば少しは落ち着いている。

冬馬が付いて技術レベルも高まっていて歌としての完成度も比例して高くなっているはず。

常人なら辟易してしまって潰れるか自らアイドルとしての人生を断つかの瀬戸際に立たされる様な莫大なレッスンスケジュールを千早はこなしていた。

それなのに何故、以前の様な納得のいく歌が歌えなくなってしまったのだろう?

千早は開港祭が終わったその夜も考えていた。

以前、その内容を冬馬に相談した事があったが返って来た答えは

「まだ、夢を追っているのか?」
である。

冬馬としても納得の行く歌を歌えなくなった千早に半ば呆れているのかもしれない。

「何を寝惚けてるんだ?これは仕事なんだぞ?」
と言わんばかりの口調で返って来たものだからそれ以来千早も冬馬には相談しなくなっていた。

夢を追うと言う事は歌うと言う事

そしてそれは楽しい事なんだと悠也が教えてくれた。

それを一蹴して馬鹿にされた様な感じがしてなんと無しに気分を害した。

けれども一人で考えていても3ヶ月もの間答えは出なかった。

ある意味夢を叶えてしまったからだろうか?

それともただ単に冬馬と歌の観点が違うのが苦痛なのか?

苦痛?歌う事が?そんなはずはない。

と堂々巡りしていつも結果は出てこない。

膝を抱え込むとチャプッと一つ湯船が音を立てた。

もう何分湯船に浸かっているのだろう?

肌が紅潮している。

「…悠也さん」
そっと口にした彼の名前が浴室で小さく反響する。

不意に出てしまった名前が何だかとても懐かしい感じがした。

何をしているのだろう?

変わってしまっているだろうか?

声が聞きたい。

会いたい…

思えば思う程、遥か遠くの存在の様な気がしてきた。

千早は小さく溜息を吐き、湯船からでると寝支度を済ませて床に就くと再度その名を小さく呟いた。

翌日の朝

目を覚ますと空は生憎の雨模様で窓からかざした腕にチクリと痛い程の冷たい雨がパラパラと降っていた。

そんな空を呆然と眺めながらも千早は一つ心に思った事を伝えようと冬馬に電話を掛けた。

事務所のミーティングルームに冬馬と社長は千早に呼び出されて待機していた。

千早が呼び出した理由は暇乞いの為。

席に着くや否や千早がそんな事を言い出すものだから社長は狼狽を隠せなかった。

「如月君、本当かね!?」
慌てふためく社長を見て冬馬はやれやれと言った感じで一つ溜息を吐く。

「社長、辞めると言う意味ではないと思いますよ?」
冬馬の話しを聞いて社長は確認する様に千早に視線を戻す。

千早は勿論辞めるつもりで来たのではない。

休みが欲しかっただけだったので「その通りです」と言う変わりに小さく頷いた。

安堵の溜息を吐く社長の隣で冬馬は目を伏せて何かを考えている様だった。

「しかし、如月君は今忙しいのではないのかね?スケジュールにも空きが殆ど無いと聞いているが…」
社長が言った事は当たりでこれからのスケジュールに空きは殆ど無い。

それを踏まえた上での千早の直訴だった。

冬馬が頷けば何も解らない社長は許可をくれるだろうと千早は踏んでいた。

しかし問題はその冬馬をどうやって納得させるかだった。

歌を完成に近づける為と言えば「レッスンしろ」と返って来るだろうし。

ただ単に休みたいだけなら「そんな暇があるはずがない」と返されるだろう。

チラリと千早は冬馬の顔を覗きこむと先程と変わらず目を伏せて細めている。

性格は正反対の冬馬だったがその仕草だけは悠也に似ていた。

一瞬千早の胸がズキリと痛む。

冬馬の様子を窺いながら息を飲んでいると冬馬はゆっくり顔を上げ、目を瞑りながら大きく息を吐いた。

「行って来い」
そしてそれだけ呟く様に言ったのだった。

「え?」
何も話してない内から冬馬の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった千早は呆気に取られてそう聞き返した。

「どうせ行く所は解ってる。行って何か答えを見つけて来い。その代わり明日中には帰って来い」
必要そうな部分だけを短く言うと冬馬は目を開いて千早に視線を向けた。

「そこは俺には何もしてやれん。本人に聞かないと始まらないなら遠慮せずに行って来い」
それだけ言って冬馬は口を噤んだ。

意外とあっさりと許可が取れてしまった千早は半信半疑な様子だったが冬馬の言葉の意味が解ると大きく頭をさげた。

「ありがとうございます!」
そう一つ礼を言って振り返ることもせず千早は飛び出すようにミーティングルームを後にした。

「良かったのかね?」
心配そうに尋ねる社長の言葉に冬馬は「あいつなら大丈夫でしょう」とだけ答えた。

意気揚々とミーティングルームを後にした千早だったがすぐに別の問題が立ちはだかっていた。

当の本人の都合はまだ聞いていないのである。

ここがダメなら話しは無かった事になって然るべきだった。

携帯電話をパクリと開けアドレス帳を開くと数少ない件数から”た行”を検索するとやよいの名前の次にまだ残っている。

消す事も掛ける事も出来なかった 対馬 悠也 の名前が…

人気の薄い廊下に出て一つ深呼吸をすると千早は微かに震える指で通話ボタンを押す。

プルルルルルッ

と電子音が聞こえてくる。

まだ繋がる事に安堵しつつも少し緊張気味に千早は聴覚を集中させていた。

7回ほど電子音が鳴った時

プツッ

と小さな音がした。

ドキリと千早の胸が大きく高鳴る。

「あ、あの…」
折角考えていた最初の一句が出てこなかった。

どうしようかと焦っていると向こうから声が聞こえてきた。

「久しぶりだね、千早」
懐かしい声が千早を包み込む。

思わず涙が零れそうになるのを堪えて千早は呼吸を整えた。

「お久しぶりです。プロデューサー」
千早がそう言うと悠也はクスリと小さく笑った。

「もう、千早のプロデューサーじゃないよ。呼びづらいならそれでもいいけどね」
全然嫌そうじゃなく悠也はそう言った。

「あ、そう…ですね」
先程から照れと焦り、恥ずかしさと懐かしさの余り千早の思考はおぼつかない。

「3ヶ月振り…位かな?」

「はい…」

「どうしたの?何かあったのかい?」

「あの…」

「うん?」

「今日…その夜、空いてますか…?」
それだけ搾り出す様に言うと千早は再び大きく息を吐いた。

「今日…?うーん、ちょっと待ってて」
ペラペラと紙の捲る音が聞こえてくる。

言いつけ通り素直に答えを待っていると電話の向こうから時折女の子と思しき声が微かに聞こえてきた。

「ごめん、おまたせ。んと5時から7時位までなら空いてるけど。またその頃、電話…」
少し言い淀んでから悠也は続けた。

「その、千早が良ければ…しようか?」
悠也が気を使ってくれてるのはその言葉だけでも千早には充分だった。

でも千早の目的はそこではない。

「いえ、その…会って…頂けませんか?」

「あ、会うって…?」

「今日、お暇を頂いたんです…相談したい事がありまして…ダメ、ですか?」
電話口から懇願する様な千早の視線が悠也には見える様だった。

「会うって言っても…そこからじゃ数時間…今から出ても5時位か」
明らかに困惑している様子で言う悠也に対して千早は追い込みをかける様に一言口にした。

「2時間だけでもいいんです…会いたい、です…」
千早が言い終えてから数秒の沈黙が流れた。

「…解った、来てくれるなら…断る理由は無いよ」
その言葉を聞いた瞬間千早はガックリと膝から崩れ落ちそうになった。

悠也と会える。

ただそれだけが今の千早の全てだった。

「ありがとう…ございます」
涙が零れたのをなるべく伝えない様に千早は言った。

その後、悠也から乗り換えの手順を聞いて駅で待ち合わせる事を約束すると千早は事務所からそのまま駅へと向かって行った。

駅に着いて乗るべき電車を確認すると千早はわき目も振らず電車に乗り込む。

早く会いたいと思う気持ちが千早を操り人形の様に従わせていた。

実際に早く乗ったからと言って到着時間が大幅に変わるわけでもない事は承知の上だったが逸る気持ちが立ち止まる事を許さなかった。

電車に乗り雨避けに被っていたダウンのフードを下げる。

側からヒソヒソと話す声が聞こえてくるが千早はそんな事に気を回す余裕など無かった。

自然にしていれば誰もそうだとは思わないだろう。

ましてや鈍行で乗り継いでいくのだ。

他人の空似程度にしか思われない。

それは以前CDショップで悠也に同じ事を言った覚えがある千早の持論だった。

徐々に離れていく首都をドアから眺めていると胸が弾む。

薄く映った自分が微笑んでいるのに気付いて少し恥ずかしかった。

電車を乗り継ぐにつれ都会の喧騒から離れのどかに移り変わっていく風景と共に白く大きな粒へと姿を変えた雨が
北に進んでいるのだと実感させてくれる。

最後の乗換えを済ませる頃になると既に白く染まった田畑が広がっていた。

不安と緊張と淡い気持ちを胸に千早は殆ど人の居ない車両の席に腰を下ろした。

これに乗って終点まで行けば悠也の居る町だ。

チラリと腕時計を確認する。

乗り替えに幾分もたついてしまったものの、ほぼ予定通りに着く事が出来る。

逸る気持ちを抱きながらもコトコトと小さく揺れる電車の振動と乗換えが終わった安堵から、ウトウトと眠りにつくまでそう時間は掛からなかった。

真っ暗な部屋の中

千早は独り膝を抱えうずくまって泣いていた。

別れを惜しみ、気持ちとは裏腹の言葉で見送り、そして目の前から去ってしまった。

見ていない筈の後姿が小さな点になるまで千早は顔を上げられなかった。

そして顔を上げた時にはその点すらも見えない。

孤独と言う言葉が千早を再び襲い始める。

行けば行く程光を失っていくとても長い道程は苦痛を伴いながらも進まない事を許してはくれなかった。

必死に手を伸ばして細い糸の様になってしまった最後の光を掴もうとした時

衝撃が千早の体を揺さぶった。

「ん…夢?」
不意な揺れに邪魔され千早は眩しそうに瞼を開いた。

明るさに慣れていない目で辺りを見渡すと外はすっかり夜が更けた様な空をどんよりとした雲が厚く覆っている。

千早が小さく溜息を吐くと車内アナウンスが鳴り出した。

「お客様に申し上げます。只今降雪の為、運行を見合わせております。また安全の為、速度を制限して運行致しますのでご理解とご協力をお願い致します。
お急ぎの所大変申し訳ありません」
台本をただ読み上げている様に車内に謝辞を述べるアナウンスが響く。

「なっ!?…」
アナウンスを軽く聞き流してふと気になった腕時計を見て千早は言葉を失った。

一秒また一秒と規則正しく残酷な時を刻んでいく

それに合わせるかの様に少しずつゆっくり

車内アナウンスの意味を千早は理解し始めた。

時計は既に20時を回っていた。

千早が電車に乗り眠りについてから数時間

この電車は止まったり走ったりを繰り返しゆっくりと、ただただゆっくりと目的地に向かって走っていたのだった。

失った言葉を飲み込み千早は携帯電話を取り出した。

ちらほらと電波状況が安定しない中、千早の目に付いたのはバッテリーの残量だった。

社長や冬馬を呼び出し、悠也と電話をして、電車の乗り継ぎの為に何度もウェブを確認したのが赤い印となって画面の右上で点滅している。

急いで数件あった着信履歴から悠也の名前を見つけ電話を掛ける。

プルルルルルッ プルルルルルッ

と電子音が鳴る中、千早は必死に祈っていた。

プルルルルルッ プルルルルルッ…ピピッ

と異なる電子音を2回ほど繰り返すと千早の携帯電話はそのまま沈黙した。

勝手に暗くなった画面は電源ボタンを幾ら押しても一瞬の明かりの後に再び戻ってしまう。

後悔を噛み締めながら千早は静かに携帯電話を閉じた。

悠也の顔が思い浮かぶ。

きっと、とても不安だったに違いない。

それは悠也自身の事なんかじゃ決してなく

自分の事で…

時間になっても現れない自分を心配して何度か電話をくれていたのだろう

そんな様子が容易に想像出来た。

想う人だから

想ってくれる人だから…

そう思うと途端に孤独と悲しさが千早に覆い被さる。

心の中で呪文の様に「ごめんなさい」を繰り返しても千早の気持ちは落ち着くことはなかった。

やっとの思いでゆっくりと動いては止まるを繰り返す電車の苛立ちをぶつける事も出来ず千早はただ呆然と外の景色を見ていた。

付着した雪で車内の暖房が窓に幾つもの水滴を作っている。

辺りは真っ白染まっていて

それはポツンと佇む電車のそのまた更に中に居る自分の存在がとても小さく、無力だと感じさせるには充分な広さだった。

たった数個の駅を何時間も掛け辿り着いた終着駅に千早は力無く降り立った。

駅に到着するまえに車内アナウンスが何か言っていたが千早にはそれを聞く気力も残っていなかった。

駅員に切符を渡し、改札を出ると小さな駅の閑散とした待合室には暖を取る為のストーブが煌々と灯っているだけで人の姿は無かった。

千早が腕時計を見るとデジタルの腕時計は

9:02PM

と緑色の明かりが黒い数字を浮かび上がらせた。

半ば寂しくもそれでいて何処かほっとした安堵と共に千早は小さな溜息を吐いた。

電話の電池が切れ諦めていたとは言え寂しい気持ちも無くは無い。

それでも2時間も遅れれば待っていなくても当然だと理解出来たし、悠也なりに自分の心配をしてくれたのは見れなくなった着信履歴が教えてくれた。

それだけでいくらか千早は救われた気分だった。

むわっとしたストーブの熱を冷まそうとフードを下ろし千早は駅の外へと一歩踏み出した。

積もった雪がギュグッと音を立てて軋む様は都会で過ごしていたら滅多に味わう事が無い。

その感触に少し懐かしさを覚えつつ千早は歩き出した。

ここが悠也の居る町。

そして今、自分はここに居る。

駅を出れば薄ぼんやりとした駅から漏れる灯り以外、殆ど真っ暗だった。

少し離れた所に自動販売機でもあるのかこれまたポツンと寂しげな光を放っていた。

特に行く宛も無く、それでも何とかして宿を見つけなければこの雪の中凍死してしまうには充分な寒さだった。

飲み物を買うべく千早が足を進めると自販機のすぐ隣で何かが光った気がした。

自動販売機に近付くにつくとそれが確かに小さな灯りだという事が確認出来た。

その灯りはある一定の間隔で殆ど同じ様な軌道を辿っている。

微かに雪の香りに紛れたそれが煙草の煙だと気付いた時には自動販売機はもうすぐそこまで迫っていた。

古い自動販売機は品数も少なく都会で見る様な大それた物ではない。

どの見本も色あせ錆び付き、歪な色がその古さを強調していた。

殆ど選択の余地の無い自動販売機の品揃えを目の前にして顔が隠れてしまうくらいの大きな溜息を吐くと財布を取り出した。

「ち…はや?」
財布から100円玉を取り出したその時だった。

不意に名前を呼ばれた千早は驚きと共に何か熱い物が胸から込み上げてくる。

「っ!?…」
聞き覚えの懐かしい声が千早を包み込む。

雪を鳴らしながら近付いてきた人物を寂しげな自動販売機の灯りがゆっくりと照らし出す。

キラリと光った眼鏡のレンズ越しに見えるその顔は紛れも無く 対馬 悠也本人だった。

引力に引かれる様によろよろと近付くと千早はもう一度その顔を見つめた。

驚きを隠せないその顔は千早を確認するとニコッと小さく微笑むかと思えばすぐにすまなそうな顔になる。

「駅で待ってるって言ったのに、ごめん」
開口一番そんな事を言われては全てのきっかけを千早は奪われてしまう。

嬉しいと微笑む事も

何でこんな所に、何でまだいるのかと怒る事も出来なかった。

ただ溢れる涙を振り払うように顔を横に振ると悠也の胸に飛び込んだ。

そしてしばらくの間、子供の様にしゃくり上げながら暖かな胸の中で泣いていた。

なだめる様に背中を擦る悠也の手はとても大きくそして優しさに満ちていて不思議と千早を安心させる効果がある様だった。

少しずつ落ち着きを取り戻した千早の様子を見計らって悠也は声を掛けた。

「落ち着いたかい?」

「…はい、すいませんでした」
時折鼻をすすりながらも人差し指の甲で目尻を拭いながら千早は答えた。

「おし、じゃあ少し歩こうか?」
悠也の言葉に千早は小首を傾げたが少し考え小さく頷いた。

「千早にも見て欲しい所があるんだ」
そう言うと悠也は何の衒いも無く千早の小さな手を握って歩きだした。

チャリと金属の重なる音がするかと思うと寒気に曝されていた手とは違った底の無い冷たさが千早の手の平に触れる。

あまりの冷たさに見てみれば悠也の左薬指には銀色をしていた。

中世の騎士の甲冑を模ったアーマーリングだった。

そんな冷たさとは逆に何時だったか感じた懐かしさと僅かにときめく胸を押さえながら千早はつられて歩き出した。

急な展開に千早の中には沢山の感情が交錯していた。

会えた喜び、待たせた罪悪感、何故帰っていなかったのかと言う疑問。

しかしどれも今の千早にはとても小さな事だった。

今は悠也と一緒にいると言う事実がそれを殆ど無かった事にしてくれている。

30分程歩いて若干きつめの坂を上ったかと思うと大きな一本の木が見えてきた。

途中、悠也も傘を持っていない事に多少なりとも疑問を感じたが忙しい合間を縫って飛び出してきてくれたのだろうと勝手に解釈していた。

そんな事を考えながら歩いていたので坂には少し息が切れたものの苦痛は露程も感じなかった。

「いきなりこんな所に連れて来てなんだけど、今俺が一番気に入ってる場所なんだ」
木の麓が頂上なのかそんな事を言いながら悠也は千早の手を離し「ふぅ」と大きく息を吐いた。

「あ…」
千早も釣られて大きく息を吐き、顔を上げるとその光景には言葉も出なかった。

ポツリポツリと疎らに薄く光っている屋灯り。

来た方を向けば駅の灯りが。

360度見渡しても必ず何処かに同じ様な光が点在している。

体の芯を小さな雷が走る様な痺れにも似た感覚が走った。

千早が瞳を閉じると同時に千早の感性が遥か上空舞い上がり自分を見下ろす。

輝きの強い物

弱い物

その灯りはやがて星になり

不規則だが確実な形となって星座を織り成し

自分は今その中心に確かに存在していた。

その様子を見て悠也は微笑んだ。

「どうだい?何か感じられたかい?」
悠也の言葉に千早は静かに瞼を開くと柔らかな笑みを携え短く「えぇ」とだけ答えた。

「そっか、何かを実感できたなら連れて来た甲斐があるよ」

「ありがとうございます」

「さて―」
うーっと軽く伸びをしながら悠也はさらりと言った。

「じゃあ本題の前に聞くけどここで話しを聞く方がいいかい?それとも…」
そこまで言って悠也は少し恥ずかしそうに言い淀んだ。

「暖かい場所に移動する方がいいかな?まぁ…そのなんだ、俺の部屋なんだけど…」
そこまで言われて千早は悠也が言い難そうにしていた理由が解って苦笑した。

「話しはここで、聞いて欲しいです」
千早の答えに悠也は何処かホッとした様な、それでいて少し残念そうな複雑な顔をしていた。

そんな悠也の姿にクスッと小さく笑う。

「でも泊まる所が無いので…」

「あぁ…うん、わかった…」
千早にそんな照れ臭そうに言われては悠也はそんな言葉しか返せなかった。

「クスッ、でも安心しました」
不意に千早が笑うので悠也は眉根に皺を寄せた。

「全然お変わり無いんですね、私がデビューした頃から」
そう言われて悠也は視線を空に向けた。

思い出して照れ隠しをするように一つ咳払いをする。

「コホン、まぁ確かにあの時もいきなり手を引っ張って行ったかもね…」

「フフッ、ですね。フフフフッ♪」
何がツボに入ったのか千早はころころと笑い出した。

そんなに笑われると困惑しつつも釣られて悠也も思わず口元が緩んでしまう。

千早自身もあまり変わっている様には見えなかった。

少しだけ物静かになったと言うか、大人になったと言うか。

どこか表情が豊かになった気もする。

(綺麗になっちゃって…)
そんな千早の成長が悠也自身少し嬉しかった。

一頻り笑って満足したのかふわりと白く細長い息を吐くと千早は悠也に向き直った。

「ごめんなさい」

「いや、いいよ。元気そうで何よりだ」
悠也がにこりと微笑むと千早も笑みを返した。

「プロ…いえ」
千早は自分に言い聞かせるように首を小さく振った。

「悠也…さんにお聞きしたい事があります」
千早が切り出すと悠也も真剣な表情に戻る。

わざわざ会いに来てまで話したいと言う内容なのだ。

千早自身相当悩んでの結論なのだろうと思ったからだった。

「うん、言ってごらん」
そう言うと悠也は側にある大きな木に寄りかかると真摯な眼差しを千早に向けた。

「あれから、悠也さんと離れてから…自分の歌に満足が出来なくなりました」
淡々と語る千早の言葉が悠也の心をえぐった。

あれから悠也とて苦悩の日々を過ごしていたのだ。

それでもここに留まらなければならない理由はとても自分一人の問題とは言えない程大きいものだった。

「夢はまだ追い続けているつもりです。沢山の人に私の歌を聞いてもらいたいと言う気持ちはデビューから衰えていません」

「うん…」

「今のプロデューサーについて貰って技術も少しずつ上がっていると思います」

「冬馬だからね」

「沢山のレッスンは確かに大変ですがそれが嫌だと言う訳ではないんです。それなのに…」

「…」

「それなのに私は、私自身の歌に満足が出来ません…」
責めるでも同情を誘う様な口調ではなく、ただ自分なりに分析し悩んだ結果として千早が話している事は悠也にも解った。

「その答えを俺に聞きたい、と…」

「はい」

「ふむ」
悠也の思考回路が回転し始める。

「冬馬には相談したのかい?」

「はい…ですが」

「いや、言わなくていいよ。その顔を見れば何て言われたか解る気がするよ…」
悠也の目が思考時間に入る。

唇に当てた左手がキラリと一瞬光った。

「そう、ですか?」
悠也は相手の表情を読むことに長けていた。

そして表面上でしか解らない表情から相手の本音を見抜き自分としての最大限の解決方法を見出してくれる。

だからこそ、千早は悠也を信頼し安心して色んな事を任せておけるのだった。

考えている悠也の隣に千早も寄りかかった。

こうなってしまった悠也は何を言っても聞こえないのは過去に経験済みだった。

「なるほどね、フッ」
小さく笑い何か納得のいく答えが見つかったのか程なくして悠也は表情を戻すと再び千早に視線を戻した。

「今の千早にとって夢は人生の一部なんだね」

「え?」
冬馬とのやり取りに慣れてしまった所為かてっきり技術レベルの話しをされると思い込んでいた千早は瞳を瞬かせた。

「千早は夢を追っていると言ったよね?」

「はい…」

「本当にそうだったかい?デビューが決まってから千早はそんな思いで歌っていたのかい?」

「…」

「デビューした日、ミーティングの後に歌ってくれた千早の歌を俺は今でもちゃんと覚えているよ」
悠也はボーカルレッスン室で千早の歌った歌を思い出していた。

思えばこの時から惹かれていたのかも知れない。

この時、既に千早に心を奪われていた。

透明ながら凛として通る歌声

千早の息が声帯を通して辺りの空気を震わせて鼓膜を刺激する感覚

千早の声が好きだった。

震える程の歌唱力をそんな声に乗せて振舞えば誰もが虜になってしまう様な歌手。

それが悠也の好きな千早だった。

決して技術の高さだけではなく。

ただ直向きに歌う事の中に生きてきた少女だったからこそ紡ぎ出せる旋律。

悠也はそれを知っていた。

「千早はあの時は夢を追ってなんていなかったよ」

「そ、そんな事は無いと…思います」
言われて自信無さ気に呟く千早に悠也は小さな笑みを浮かべると静かに首を横に振った。

「ううん、千早は夢を追っていなかったよ。その代わり」

「…」

「その代わり、夢の中に生きてた」

「…っ!?」
凍る様な冷たい空気が一気に胸を通り過ぎた。

悠也の言葉が千早の心を駆け巡る。

すぐには理解できなかった。

ただその言葉は千早の忘れかけていた感性に直接触れてきたのだった。

小さく白い息を吐いて悠也は静かに話し始めた。

「人生の中に夢を持てと沢山の人が言う。俺も千早と離れてからそう考えてたよ。」

「…」

「でも、嫌な事があったり辛い事があったりどうしてもそれを苦痛に感じてしまう。」
悠也の言葉の一言一句を記憶する様に千早は耳を澄ませていた。

「今自分は何をしてるんだろう?とかこんな筈じゃなかったのにと挫折しそうな時の言い訳にしようとしてしまう」

「…はい」

「何をしても楽しかった時の事を思い出せば意外と答えは簡単だったんだよ」
少し自嘲めいた表情を一つ漏らして悠也続けた。

「人生の中に夢があったんじゃなく、夢の中に人生があったんだなってさ」
黙って聞いていた悠也の言葉に千早の感情は形となって音も立てず頬をつたった。

「夢が人生の一部だとどうしても違う逃げ道を探してしまいがちだけど、夢の過程が人生と言う道程なら…」

「ふっ…う…。…すん、ぅ…」

「何があっても夢に向かって頑張れるんじゃないかな?」
そう言うと少し照れ臭そうにして悠也は微笑んだ。

「千早ならきっと出来るよ、大丈夫。保証するよ」
そう優しく呟くと子供が怒られた理由の重さを理解し溢れる声と涙を我慢する様に唇を噛み締めて泣いている千早をそっと抱き締めた。

先程は感じられなかった懐かしい香りが千早をふわりと包み込む。

思い詰めていた千早に、そうさせてしまった事を償うように何度も何度も悠也は千早が落ち着くまで背中を撫でていた。

まだ時折ぐすっと鼻を鳴らしながら千早は顔を上げた。

「俺は喋るのが上手じゃないけど力になれたかい?」
目尻に残った涙を人差し指の甲で拭いながら千早は答えた。

「えぇ、とても。ありがとうございました」
「どういたしまして」と言う代わりに悠也はニコリと微笑んだ。

千早も「フフッ」と笑うとそれに答えた。

「あ…」
悠也の胸がドキリと高鳴った。

腕の中で潤んだ瞳をすがる様な上目遣いで向けてくる千早。

困っている千早を放って置けなくて何時も半ば反射的に抱き締めてしまう自分が悔やまれた。

そして、それを拒まない千早。

「ぁ…」
思った以上に顔が近い事に千早も気付いたのか小さく声を上げて頬を染める。

それでも千早は瞳を逸らさなかった。

「と、とりあえず帰ろ―」
その視線に居た堪れなくなった悠也が体を離そうとした時

千早の細い指が涙に濡れた悠也のシャツをキュと摘まんでいた。

「っ!?」
逃げ場を失い視線を戻すと右手でシャツを摘まみ左手は胸の前で握って頬を赤らめながら視線が合わぬ様千早は右下を向いていた。

会話が途切れたままお互いに動く事が出来なかった。

悠也の視線の先にはサラサラと長い髪に雪光を帯びて白いヴェールの様に輝く小さな結晶を乗せた千早が俯いている。

微かに肩を震わせて悠也の事を待っていた。

「千早…」
悠也の声にピクリとシャツを摘まんでいた手が小さく反応した。

空から降りてくる雪が積もる音さえも聞こえてくる様な沈黙の中。

悠也がギュッと雪を鳴らす。

トクントクンと悠也な顔が近付くにつれ千早の鼓動は早さを増して行った。

恥ずかしさでフワリフワリと途切れ途切れに白い息が舞っていく。

忙しなく泳ぐ瞳を閉じてゆっくりと顔を悠也に向ける。

そして、静かに唇を重ねた。

冷たい風が音を立てて通り過ぎ、止まっていた時が軋みを上げて動き出す。

静かに離れた唇をお互いの白い息がくすぐる様に掠める。

真っ白に消し飛んだ頭の中、ただ悠也に触れた唇の温もりだけが残っていた。

千早はゆっくりと頭を彼の胸に預ける。

悠也はそんな千早の髪を一度すくうと静かに撫でた。

「貴方は…なんだかずるい気がします」
胸に一度額を擦ると千早は呟く様に言った。

「どう言う事だい?」

「何だか、私の事を全部知っている様な…」

「ははっ、それは無いよ」
悠也がそう言うと今度は千早が小さく首を横に振った。

「貴方は、私の欲しい言葉を欲しい時に必ずくれます」

「う〜ん…」
照れ臭い様な恥ずかしい様な苦笑いを浮かべて悠也は頬を掻いた。

「貴方をプロデューサーに持って…。今は知人として知り合えて私は…幸せです」

「褒めても何も出ないぞ」

「フフッ、結構です。もう頂きましたから…」
千早の言葉に耳が熱を持つのを悠也は押さえ切れなかった。

それからしばらくの間、無言のまま悠也は千早の髪を撫でながら見つめていた。

時折、風にそよぐ千早の髪の甘酸っぱい香り、囁く声と共に頬を撫でていく吐息、淡く微笑む仕草。

その一つ一つが本能を刺激して理性が揺らぎそうになりながらも、何より千早を想う気持ちがそれをよしとはしなかった。

千早の枷になってしまう様な自分にはなりたくなかったから…

「さ、さて。とりあえず家に行こうよ。風邪でもひかれたら冬馬に何言われるか解らない」

「そうですね」
千早はそう呟くと静かに悠也の手を取った。

部屋に着いてからも二人の会話は続いていた。

ソファに腰掛けこれまでの事を千早は悠也に言って聞かせた。

「冬馬はきっと『まだ、夢を追ってるのか?』みたいなこと言ったんじゃない?」
悠也の言葉に千早は目を丸くした。

「その…通りです…」

「ははっ、だと思ったよ」
悠也は嬉しそうに笑った。

「多分、冬馬はこの答えをとっくに知っていて俺と同じ意味で言ったんだと思うな」

「そうなんですか…」

「頭が良いんだよ、冬馬は。それでいてあー見えて俺よりも頑固だし夢見がちなんだ」
頑固と言う言葉に納得は出来たが夢見がちと言う言葉には正直疑問符が付いていた。

「夢見…がち…」
そうは思えないと言う風に千早が呟くと「クッ」と悠也は小さく笑った。

「うん、きっと千早をトップアイドルに。トップシンガーにしたいって気持ちは俺でも及ばないかもしれないよ?」

「…」

「頭も良いからレッスンも効率的なんじゃないかな?」

「確かにレッスンの量は今までに比べて多いですけど…」

「多いだろうねぇ、でも出来ない事はやらないと思うよ」
その言葉に千早は小首を傾げて思い返していた。

「最初の内は力量を測って、莫大な量だけど頑張ればなんとか出来ちゃう位の量じゃないかな?」
言われて見て千早は思わず頷いた。

「量が多ければ多いほど期待してくれてるんだと考えていいよ」
悠也の言葉に千早は冬馬の見る目が変わった様な気がした。

「上手く弁護出来てたら冬馬にもよろしく伝えておいて」
ニコリと笑った悠也の笑顔は友達を思うそれだった。

「はい、伝えておきます」
クスリと千早も微笑んだ。

それからどれだけ話していたろう。

今までの数ヶ月間を全て語り尽くす様に話していた。

まるで、いつ帰って来れるか解らない長い旅路を明日に迎えた前夜の様に…。

北の冬は殊更長く、明確に朝だとは言えない時間まで話しをしていたろうか。

気がつけばお互いにソファと相手にもたれ掛かる様にして寝息を立てていた。

翌日

穏やかに晴れた空が雪を黄金色に輝かせていた。

駅のホームまで見送りに来た悠也を正面にして千早は電車に乗っていた。

動き始めるまでの間、お互いに少し話した程度で言葉はあまり長く続かなかった。

前後確認を終えた駅員が高らかに笛を吹く。

「元気でな」
そう笑いながら言う悠也の言葉に千早は返事をせずじっと見つめていた。

たったの数時間がとても長い間一緒に居たかの様な錯覚を伴い、走馬灯の様に掠めていく。

悠也から別れを告げられたあの日、こうして目の前にしていたらどうしただろう?

それでもただ泣く事しか出来なかっただろうか?

そんな思いを巡らせているとジリリリッと電車の出発を告げるベルが短く、けたたましく鳴るとドアの閉まる鈍い音がした。

その瞬間

千早は車両のドアから滑り出し刹那に彼の首に腕を回していた。

小さな痛みが頭に走る。

プツリと千早の長髪を電車のドアが引き抜いていたのかも知れない。

それでも千早はプロデューサーしがみつき静かに涙を彼のシャツに滲ませていた。

別れようと思った決意はいとも簡単に未練に負けてしまった。

「千早…」
声も出さず、しゃくり上げもせずただただ瞳から溢れる涙を自分に擦り付ける千早の肩を悠也はしっかりと抱いた。

「何も今生の別れじゃない。機会があればいつかまた会えるよ」
そんな風に言う悠也の言葉に一つ一つ千早は小さく頷いた。

「今の千早なら一人でも大丈夫だろ?」
最後に一つ大きく頷いた。

しばらくして次の電車が駅に到着すると名残惜し気に千早はこの地を発つ決心をした。

ゆっくりと乗り込み振り返るとやはり悠也は笑顔を向けてくれた。

数秒見つめ合うと再びベルが鳴り出すと条件反射的に涙が湧き上がって視界がぼやける。

扉が閉まりかけた時、悠也の声がした。

「千早!」
ガタっと音を立てて扉は固く閉ざされる。

千早はビクリと体を震わせてぼやけている視線を悠也に向けた。

「わ・ら・っ・て」
車窓の向こうでそんな風に悠也は口を動かすとニコリと微笑んだ。

グスッと鼻を鳴らして指で目尻を拭うと千早は涙混じりに笑顔を向ける。

それを見て悠也は満足そうに頷くとゆっくりと動き始めた千早を2,3歩追いかけて再び口を動かした。

「か・わ・い・い・よ」
そう口を動かすと足を止めた。

徐々に視線から外れて行く悠也を見つめていた千早は悠也が見えなくなるとクスッと小さく微笑んだ。

「やっぱり…貴方はずるいです」
そう嬉しそうに呟くと千早を乗せた電車は千早の帰路へと向かって速度を上げていった。

<Shiny smile>

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